言葉を目にする、耳にするだけでは、それが意味する、意図するものを理解出来ない事が多い。そこには「気づき」が必要になる。経験と照らし合わせてみたり、今の現状を見つめ直してみたり。出された食事を「美味しそう」と眺めているだけでは、腹は満たされない。食べて初めて、血肉になるのだから。
知識として分かっている事と、実際に身になっている事はイコールではない。その場でどれ程の関心があったとしても、信じられないくらい簡単に忘れ去ってしまうし、そうやってまた「もっと良さそうだ」と、新しい言葉を探し、求め、欲し始めてしまったりもする。
暗闇で、懐中電灯を手にしながら、懐中電灯を探すのにも似ている。探すから見つからない。ただ、既に手に持っていると気付けば良い。こんな言葉遊びへの納得から、ふとしたタイミングで、理解へと切り替わる。何が影響してかは分かり得ないが、たぶん、内側の何かが整ったのか。
幸せを探してはいけない。
探したら、見つからない。
此処に「無い」と認識しているから探し、求め、欲する。『探し、求め、欲する』事は、此処に「無い」という認識を強める事。例えば、この文章を読みながら「自分の目が無い!」とは慌てる事は決してしないだろう。だから「気づけ」と、多くに記されているのか。ふと、うつろいゆく。